標本の意義

植物標本館(ハーバリウム)とは

 ある名前(学名)で呼ばれている植物は、どのような形態的特徴を備えているか、地球上のどこに分布しているか、というような情報はすべて証拠があってこそ科学的な情報であるといえます。その証拠となるものが標本であり、植物学の場合、もっとも効率のよい保存方法として、乾燥して台紙に貼付した「さく葉標本」が国際的に採用されてきました。このさく葉標本(以下、標本と略す)を収集・保管し、教育・研究のために活用するのが植物標本館(ハーバリウム)で、日本国内だけでも60以上の大学や博物館・植物園などに設置されています。標本館に収蔵された標本は、以下のように様々な学術研究に活用されています。

  • 命名のための基準標本
     ある植物が新分類群(新種や新変種など)の学名として発表される時には、その学名の証拠となるただ一つの標本(タイプ標本)を指定し、これを公共の標本館に永久に保存することが国際植物命名規約で定められています。タイプ標本は学名の基準となる標本で分類学的に大変貴重なものです。学名についての疑問の多くはタイプ標本を調べることによって解決できます。牧野標本館には牧野富太郎博士らによって命名された多数のタイプ標本が大切に保管されています。
  • 植物の特徴や変異を調べる
     標本の示す形態は、その植物が持つ特徴の直接的な情報源です。またその変異を調べることは、その分類群を認識する上でとても重要です。そのためには多数の標本の比較検討が必要であり、標本館のようにあらかじめ多数の標本を蓄積してあれば効率よく観察することができます。乾燥した標本を肉眼で観察するだけでも多くの情報を得ることができますが、必要な部分をお湯で戻して柔らかくし、解剖することにより、植物が生きていたときの状態に近い特徴を観察することも可能です。また
    標本の乾燥・保存状態さえ良ければ、標本の一部からDNAを抽出して解析することができ、遺伝子資源として活用することも可能です。標本から採取された花粉の稔性や形状を調べることにより、雑種や倍数性の判定に利用されることもあります。
  • 植物の分布を調べる
     植物分類群はそれぞれ独自の分布域を持っており、分布を調べることは植物の進化や地域の自然の成り立ちを解明する上で重要なことです。最近では、環境の指標として植物の分布を調査することも行われています。すでにハーバリウムに蓄積された標本は分布を調べるうえで直接の情報源となります。また調べた分類群が実際にそこに生育していたという証拠として、新しい標本を蓄積・保存することも必要です。
  • 植物季節や生活史を調べる
     植物は季節の移り変わりに伴って、常に変化し続けています。様々な時期に採集された標本は、ある分布域における植物の展葉、開花、結実などの季節的変化を知る手がかりとなり、多くの標本を観察することによってその植物の生活史を解明することができます。
  • 地域の自然環境の変遷過程を調べる
     地域の自然環境を把握する上で、植物はとても重要な指標となります。また地域の自然環境は、植生の遷移や気候変動、人間活動などによって移り変わっていきます。そのような自然環境の変化と共に、特定の生物種が絶滅したり、外来種のように外から新たな種が入ってくることもあります。標本はその生物がその時その場所に生きていた事の証であり、地域の自然環境の歴史的な変化を知る手がかりにもなる現在では絶滅した植物や、過去における植生環境、あるいは外来植物などの移入に関する情報を得ることができます。
  • 研究の証拠資料
     研究成果を論文に発表する場合、材料に用いた植物の証拠標本を、公共の標本館に保存し、それを明記することが常識となりつつあり、多くの学術論文では論文受理のための条件としてあげています。特に分類学や系統学の分野においては、論文に記載されている植物の同定が真に正しいかどうかの証拠標本として重要です。
  • 同定の参考資料としての標本
     植物の名前を調べる(同定する)ために、一般には図鑑類や文献などが用いられますが、標本となっている実物と比較すれば、より効率よく同定することができます。特に文献情報が不完全な地域での植物の同定には標本館の標本は貴重な情報源となります。


左:ヤマトグサ(ヤマトグサ科)のタイプ標本。1888年に小学校教師・渡辺荘兵衛氏が採集した標本。日本人として始めて命名した際のタイプ標本となった。
右:カコマハグマ(キク科)のタイプ標本。カシワバハグマとコウヤボウキの交雑種。牧野博士により東京杉並区の大宮八幡宮で1897年に発見された。


異なる環境で採取したホウチャクソウの標本。同じ地域でも環境が異なると、形態が大きく変異することが多い。


標本資料に基づくツクバネウツギ種内分類群の分布(標本が採取された地点を黒点で示した)

春の開花から結実・紅葉など、同一場所で季節を変えて採取したクロモジの標本


左:ムジナモ(モウセンゴケ科)の標本。1890年5月東京都小岩村の江戸川近くで牧野博士が採集したこの標本が、日本で最初の発見。その後、日本の自生地はすべて絶滅した。
右:
タカノホシクサ(ホシクサ科)の標本。1910年群馬県の多々良沼で高野貞助氏により発見され、牧野博士が命名した植物。戦後の開発や乱獲により急減し、地球上から姿を消した。

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植物標本館の役割

 このように植物標本館は、単なる標本の倉庫ではなく、植物学にとって重要かつ基本的な情報がつまっています。図書館の蔵書が公共に利用されるのと同様に、標本は常に利用されるべきものです。植物情報センターとしての標本館の役割を果たすためには、(1)常に標本の収集につとめ、多くの標本情報を蓄積しておくこと、(2)収集した標本を整理し、適切に管理・保管して利用しやすい状態に保つこと、(3)他の標本館との情報交換を進め、所蔵標本の貸出や標本データベースの公開などの研究上の便宜をはかること、などが必要です。

参考文献

Horikawa, Y. 1972. Atlas of the Japanese flora, an introduction to plant sociology of East Asia. Gakkenn Co., Tokyo.

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