牧野富太郎博士

 牧野富太郎博士は、明治維新の時代に初めて日本に入ってきた西洋の近代植物学を独学で学び、自ら日本の植物をくまなく調査・採集して、それを広く世界の学会に紹介しました。博士が命名した植物の学名は、1500を超えます。牧野博士は、日本の植物分類学の草分けであると同時に、日本人科学者の草分けでもありました。

 牧野博士は、江戸時代末期の文久2年(1862)に土佐・高岡郡佐川村(現・高知県高岡郡佐川町)の裕福な商家の長男として生まれました。正式な学歴では、小学校中退ということになりますが、寺子屋や私塾などで和漢学に加え、英語、オランダ語、さらには物理学、生理学、植物学など、西洋の近代科学を多岐にわたり学びました。そして、地元の高知県で自ら植物採集を始め本格的に植物学を志すようになったのです。

 その後、明治17年、22歳になった牧野博士は上京し、東京帝国大学(現・東京大学)の植物学教室に出入りを許されます。そして明治26年には、東京帝国大学理科大学の助手に任ぜられ、名実ともに植物学者の道を歩み出します。しかし、上司である教授たちとは、良好な人間関係を築くことはできませんでした。

 その一方、生来金銭感覚のなかった牧野博士は、研究のために必要と思った書籍は非常に高価なものでも全て購入するなどして、郷里の財産も使い果たしてしまいました。ついには多額の借金をすることになって生活も困窮します。それでも、壽衛夫人を始め周りの人々に支えられて、植物の研究に打ち込んでいきました。そして、94歳でなくなる直前まで、日本全国をまわって膨大な数の植物標本を作製し、熱心に日本産植物の研究を続けました。植物標本は、牧野博士が個人的に所蔵していた分だけでも40万枚に及びました。


東京に上京した頃(左)、77歳(中央)、晩年(右)の牧野博士

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牧野富太郎博士年譜

文久2年(1862) 0歳:4月24日、土佐国高岡郡佐川村(現・高知県佐川町)の裕福な商家に生まれる。幼名成太郎。

慶応4年(1868) 6歳:この頃富太郎と改名。この時すでに両親と祖父は他界し、祖母に育てられる。

明治7年(1874)12歳:佐川小学校に入学。しかし小学校の授業に飽き足らず後に自主退学。その後、植物採集などをして過ごした。

明治10年(1877)15歳:佐川小学校授業生(臨時教員)となる。この頃、横倉山などに出かけて植物採集をしていた。

明治17年(1884)22歳:4月、上京して東京帝国大学理科大学植物学教室へ出入りを許され、矢田部教授と松村任三助教授を知る。

明治20年(1887)25歳:市川延次郎、染谷徳五郎と「植物学雑誌」創刊。この雑誌の巻頭論文として「日本産ヒルムシロ属」を掲載した。

明治21年(1888)26歳:11月、「日本植物志図篇」の刊行を始める。この年、小澤壽衛と結婚し、根岸に所帯を持つ。

明治22年(1889)27歳:「植物学雑誌」第3巻第23号に、日本人として初めて新種ヤマトグサに学名をつける(大久保三郎と共著)。

明治26年(1893)31歳:9月から東京帝国大学理科大学助手となる。月俸15円。

明治33年(1900)38歳:「大日本植物志」第1巻第1集を発行。このシリーズは第4集まで発行された。

明治39年(1906)44歳:「日本高山植物図譜」(三好学と共著)発刊。

明治42年(1909)47歳:新種ヤッコソウを発表(この植物は牧野標本館のシンボルマークとなっている)。

明治45年(1912)50歳:東京帝国大学理科大学講師となる。

大正2年(1913)51歳:7月に来日したエングラーと日光で採集。エングラーはドイツの有名な植物分類学者である。

大正5年(1916)54歳:「植物研究雑誌」を創刊。

昭和2年(1927)65歳:東京帝国大学から理学博士の学位を受ける。

昭和3年(1928)66歳:妻・壽衛死去(54歳)。仙台で見つけたササの新種にスエコザサと命名。

昭和15年(1940)78歳:「牧野日本植物図鑑」を発刊。

昭和23年(1948)86歳:10月に皇居にて、天皇陛下に植物学を御進講。

昭和26年(1951)89歳:文化功労者に選ばれる。

昭和28年(1953)91歳:東京都名誉都民第一号に選ばれる。

昭和32年(1957)94歳:1月18日永眠。没後、文化勲章を授与される。

昭和33年(1958):東京都立大学理学部牧野標本館開館。高知県立牧野植物園・練馬区立牧野記念庭園開園。

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